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​小林一三の経歴

1960年、茨城県水戸市生まれ。

東京デザイナー学院アニメ科卒業後に、馬の走りの自主制作アニメを持ち込みスタジオぴえろの入社試験を受けて合格。

最初の仕事は、押井守監督(当時は演出)の元で『ニルスのふしぎな旅』の動画を描く。その後、『うる星やつら』の作画をしている時に原画に昇格。押井守監督の『うる星やつら』の演出について社内で揉めてスタジオぴえろを退社。

その後は、フリーのアニメーターとして『ダーティペア』やOVA『うろつき童子2』などの原画を描き、糊口を凌ぐ。

1986年にスタジオ・ライブの芦田豊雄監督の映画『北斗の拳』の原画を描いている時に、線が多すぎて腱鞘炎になった。機動戦士ガンダムの安彦良和原作・監督の劇場用アニメ『アリオン』の原画も描いた。

バブル当時はスクーバ・ダイビングにハマる。そのため、今でも海中の生物や馬の走りを描くことは得意である。

この頃、御厨さと美監督のOVA『ノーラ』に参加するも、給料を持ち逃げされて一銭も支払われなかった。OVAは発売しているのに、アニメーターはタダ働き。これはおかしい。

90年代に単身、韓国に渡り、アニメ業界で働く。この時、韓国人の妻を合コンでナンパした。

韓国で企画を立ち上げるもポシャり、日本に帰国。大見栄張って韓国へ行った手前、引っ込みがつかず、東京は居心地が悪く、地元に帰る。

地元でもアニメーター以外に出来る仕事が無いため、実家の連れ込み旅館・里美荘の二階を両親から借りて、申し訳程度の僅かな家賃を支払い、細々とアニメーターの仕事を再開する。元連れ込み部屋だけに臭かった。獣の臭いがした。この当時は、まだ会社組織になっていなかった。

この頃、TVアニメ『GTO』の原画を担当した。

テレビ東京で始まった『サイボーグクロちゃん』のOP,ED,原画,作画監督を担当する。最初はAパートのみの原画だったが、高校で漫研の部長をしていたという滅茶苦茶絵の上手い新人Eさんが手伝ってくれて、A,Bパートの原画を担当できるようになった。いま思えば、普通なら例えば1から30まで連番で二原を頼むところを絵の上手いEさんには難しいカットばかりを渡して、簡単なカットは絵の下手なスタッフに回し、しかも同額の1カット千円で仕事を依頼していたのだから本当に酷い扱いだった。これが後に尾を引き、大きな問題となるとは誰が予想し得ただろうか?

水戸アニメーション制作所を名乗るようになってからも、OVA『淫獣学園 La☆Blue Girl』などの大人向けアニメの仕事をちょくちょく入れていた。アダルトアニメは作画料が他のTVアニメよりも桁違いに高い(儲かる)ことが理由だ。マンションも新築を分譲で購入したばかりだし、子供は生まれるし、カネが必要だったんだ。金に白も黒もない。そのくせ、スタッフにはそのことを隠して他のアニメと同額で女のハダカを描かせていた。しめしめ。

​話を戻して、サイボーグクロちゃんのTV予告編で流れるのは全てEさんが担当したカットだった。難しいカットだけをEさんに押し付けていたからだ。それでいて、作画料は他のもっと簡単な顔のアップなどと同額で、いま思えば明らかに不公平な扱いだった。アニメ業界の幼稚でブラックな企業体質にすっかり染まっていた小林は何の罪悪感も感じていなかった。

水戸アニメーション制作所が担当した66話を最後に、2001年1月、親会社のスタジオボギー(パブリック&ベーシック)が倒産した。

親会社が倒産して、下請けの小林は発狂していた。無理もない、160万円分の作画料が未払いのまま、会社が倒産してしまったのだ。「右翼に頼んで街宣車を出してもらったらどうか?」などと狂った発言を繰り返し、なんの落ち度もなく、薄給に耐えながら、最高のクオリティで作画をしていたEさんにまで八つ当たりして怒鳴り散らした。ここで、関係性が完全に壊れたのだと思う。Eさんはストレスに耐えられない性格であった。もしも、親会社のスタジオボギー(パブリック&ベーシック)が6億円の負債を抱えて倒産することなく、サイボーグクロちゃんが映画化され、小林が先にキレることなく、平穏無事な人生であったなら袂を分かつことも無かったであろう。

小林は友人から百数十万円の借金をして、なんとか皮一枚でその場を凌いだ。

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話は脱線するが、なぜ、スタジオボギー(パブリック&ベーシック)がアニメ制作だけで6億円もの借金を抱えてしまったのかというと、サイボーグクロちゃんの携帯ゲーム機用のゲームを発売したり、モーターとリモコンで動いて戦うおもちゃを販売したり、サイボーグクロちゃんのOVAを制作したりと散財して、そのどれもこれもが売れずに赤字が膨らんだ為だった。

早朝や深夜に放送されるアニメにスポンサーなど、ついていないも同然だ。30分アニメを1本作るのに1千万円ほど制作費がかかる。CMだけで元が取れる筈がない。(テレビのCM料金は視聴率に応じて支払われる仕組みになっていて、早朝や深夜放送のアニメで視聴率を稼げる筈がない)

では、アニメ会社はどうやって足りない分の制作費を回収しているのかというと、俗に〝円盤〟と呼ばれるDVDやブルーレイ、他にキャラクターグッズなどの売上の印税で、不足した制作費を補っているのだ。

それ故に、ドラゴンボールのようにアニメやキャラクターグッズの印税が集英社や鳥山明にゴッソリ持っていかれる作品よりも、サンライズのガンダムやジブリ・アニメのように、アニメスタジオ・オリジナル作品の方が印税がガッポガッポ入ってくる。

そうした理由から、水戸アニメーション制作所では、2011年11月に大韓民国の檀君神話をベースにしたオリジナル・アニメ『ファヌンの冒険』を企画してパイロット・フィルムまで作ったが、何処のテレビ局も買ってくれず頓挫した。大赤字だ。

尚も懲りず2016年に、ガルパンに肖って萌えアニメ路線で企画・制作しようとしたオリジナル企画アニメ『水浜線物語』も、全く人気が出ず沈没した。また大赤字だ。おれは馬鹿だ。

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さて、クロちゃんの作画と並行して、Eさんが絵の上手そうな子に片ぱしから声をかけて水戸アニメーション制作所に誘ってくれたのだが、大量に絵を描く仕事に慣れないのか、時給換算したら数百円にしかならない安月給に呆れたのか、元連れ込み旅館の部屋が酷く臭うせいか、直ぐに皆辞めてしまう。大貫さんが決してスタジオで作画せず、家に持ち帰り作画していたのも、部屋が臭かったからかもしれない。小林は生まれ育った家だから臭いに慣れていたのかもしれないが、他のスタッフはどうだったのか……。

そういえば、Eさんがスタジオ内に消臭スプレーを撒いていたこともあった。

いくら紹介しても皆直ぐに辞めてしまう状況に業を煮やしたEさん(Eさんは短気なのだ)は代アニに求人をかけた。それで水戸アニメに来たのがT君と今でもチーフとして頑張ってくれている青柳君だった。(T君は絵が下手なので、申し訳ないが辞めて貰った)

そういえば、〝水戸っぽ〟と呼ばれる気質がある。「怒りっぽい、飽きっぽい、理屈っぽい」の三つだが、Eさんは見事にそれに合致していた。

ある時、クエンティン・タランティーノ監督もファンだというアメリカで人気の梅津泰臣さんが作画監督の18禁アニメの原画を他のスタッフに隠れて描いていた時、たまたまスタジオに来たEさんがそれを見つけ、キャラ表と照らし合わせながら勝手に絵を修正してしまったことがあった。小林は父親から電話連絡を受けて、慌ててスタジオに駆けつけたが原画は既にEさんの手で直された後で、そのまま元請けのスタジオへ送ったところ、作監修正無しリテイク無しで、そのまま原画が通ってしまった。小林が描いた原画のままであれば、いつもの様に作監修正の黄色い紙が入った原画が送り返されてきたに違いない。この時も小林はEさんにタダ働きさせた。いま思えば、幾らか謝礼を支払うべきだった。

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他の業界では有り得ないだろうが、こういうことはアニメ業界ではよく起こりうることで、あるアニメの作画が異様に良いためスタジオ内で話題になり、「あ、それ僕が直しました」と、手を挙げたのが、作画とは無縁な筈の制作進行だったことがある。〝門前の小僧習わぬ経を読む〟という諺を地でいくその制作進行は、動画と原画を飛び級して作画監督に抜擢された。嘘のような本当の話である。

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【最期の戦い】

その頃は、スタジオに常駐しているのはT君のみだった。T君は絵が下手でリテイクばかり喰らっていたが、小林に決して逆らわず、お世辞が上手いので良い気分になって、幇間を雇う気分で辞めさせなかった。

ある時、「なんでスタジオで仕事しないんだ?」と、いつもの調子でEさんを怒鳴りつけたところ「スタジオが臭いからですよ!」と、意表を突く応えが返ってきた。小林の鼻が鈍かったのだ。

その後色々あって、作監を任されているものの時間が無い状況に陥り、フラッとスタジオに現れたEさんに、絵コンテとキャラ設定表と原画を押し付け「作監をやれ」と、無茶振りしたことがあった。戸惑うEさんを「早く描け」「早く描け」と、怒鳴りつけた所、Eさんはスタジオから逃げ出してしまった。小林は、気に入らないことがあると相手が誰であろうと怒鳴り散らす悪い癖がある。反省すべき点だ。

翌日、Eさんがスタジオに来て、いつもの様にアニメの無駄話に花を咲かせていた。その時、何と言われたのか、もう思い出せないのだが、Eさんの発した些細な一言が癇に障り「そういうこと言うなら、もう来なくていいよ」と言ってしまい、Eさんはそのまま無言で帰ってしまった。

その後になって、サーッと音をたてて背筋が凍りついた。

Eさんに数十カットの原画を預けたまま、「もう来なくていいよ」と言ってしまったのだ。このままでは、仕事を落としてしまう。

小林は焦ってEさんが住んで居る八階建てのビルへ飛んで行った。

仕事場兼店舗の五階の鍵は締まっていた。小林はEさんの父親、ビルのオーナーに泣きついて、Eさんの許可も無しに勝手に五階の鍵を開けて貰い、店舗に無断侵入した。

あった!机の上に原画の束があった!

これさえあれば、奴は用済みだヒヒヒ。

……しかし、その原画の束はダミーだった。中身は何も描いていないまっ更な動画用紙にタイムシートが被せてあった。一杯食わされた!

勝手に部屋の鍵を開けるという暴挙に出たにも関わらず、相手の方が一枚上手だった。男ヒステリーが爆発した。世の全てを呪い、怨嗟の呻き声が途絶えることは無かった。家に帰っても家族に当たり散らした。おれは何て情けない男だろう?何故こうも精神年齢が低いのだろう?何故相手を諌める程の大人の対応が取れないのだろう?悔しくて涙を流した。

その後、Eさんからケータイにメールが届いた。原画を返して欲しいならそっち(小林)から詫びろ、という内容だったように記憶している。当時つかっていたケータイは、とっくに廃棄処分してしまったから、細かい内容までは覚えていない。

 

Eさんは、その後、南町奉行所というアニメスタジオで2005年に細野不二彦原作『ギャラリーフェイク』というアニメの原画を担当して、あまりにも絵が上手いため予定よりも10カット増やされ、しかも作監修正無しに止め絵の動画まで描いて、それがそのまま放送されたという武勇伝以降、消息が途絶えている。

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